5ヶ月ぶりのモリトーク。
本日の読売新聞学校での「道徳の時間」復活に関して。
記事は「かつて道徳の時間は、個人の価値観の押し付けになる可能性がある」等の意見等により復活が見送らて来たとのこと。
へぇー。
そういう考えに立つこともできるのかと変に感心すると同時に「何じゃその理屈!」という怒りにも似た気持ち湧いてきた。
私は当然に道徳の時間は復活すべき!
理由は「他の授業と比べて楽だから!」という本音は置いておいて、自然と培ってきた当たり前のモラルを、もう一度学校の時間を通じてなぞることで、無意識の中の意識が芽生えることにつながるのではないか。と。
仮にそこに担任の偏った価値観が押し付けられることがあった場合には、子供たちのモラルの中の物差しでお互いが話し合いをすれば良いではないか。
私が小学生の頃、担任の男性教諭が女生徒には甘いというように感じ、男子生徒みんなで「贔屓は良くない。甘くするなら俺たちも甘く見てくれ」と生意気にも先生に意見したことを覚えている。
どんな出来事が切っ掛けで「贔屓」していたように感じたか忘れたが、男子生徒の多くがそれを感じ先生に訴えたことを覚えている。
ついでにこんな思い出も。
給食の量が少なく先生に「もっとご飯が食べたいから家からご飯を持ってきて良いか」と男子生徒がまとまって意見をした際、学校内の先生同士で話し合いが持たれ、結局はお弁当を用意できる家庭とそうでない家庭があったりするので弁当持参NG。朝ご飯をいっぱい食べること。と学校内で決まったことを覚えている。
今になって考えると、この学校の判断と回答理由は完璧だったと思う。
先生と生徒が「正しいこと」「正しくないこと」を当たり前に話し合える雰囲気が作れたことは「道徳授業」があったからかな~と感じたりもした。
あっ。この時期を思い出したら、もう一つ思い出した。
それは「いじめ」。
小さい頃から喧嘩、いじめには一切無縁の学生生活を送ってきたけど、一度、身体的理由でいじめられている男子生徒と関係を持ったことがある。
どんな関係か?
今では有り得ないだろう「給食は全部食え!残すな!」という担任。
学校の中に一人はいるこんな先生。
この先生に当たった時、いじめられっ子は「コーヒー牛乳」が嫌いらしく、どうしても飲めないとのこと。
98%以上の生徒は牛乳よりもコーヒー牛乳が好きなのに。
上手く表現出来ないが、身体的理由でいじめられている彼は誰からも声を掛けてもらえずコーヒー牛乳とにらめっこしている。
それを見た私は「要らないの?」
彼は「うん・・・。」
「じゃあ貰うぜ!」といって貰って飲んだ。
ただこれだけの出来事だったが、その夕方、彼のお母さんから家に電話が来た。
私の母「あ。夕方S君のお母さんから電話来て」
私は「やばい。コーヒー牛乳の件だ・・・。」そう思った。
そうしたら予想に反し
「S君のお母さんが泣きながら、あんたに感謝してたよ」と。
たかがコーヒー牛乳を飲んだだけで。
こちらからすれば美味しいコーヒー牛乳を2本も飲ませてもらったのに!?
こんな事を思い出して感じたことは
小さいころは(大人になっても家庭内では同じかな?)、小さな出来事でも、家庭、学校問わず話し合える雰囲気作りが必要なのかなぁと感じました。
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